日本と世界の歴史家114人の列伝全五巻完結 | |
20世紀の歴史家たち 刀水歴史全書45 四六上製・280〜400頁・定価各2940円 |
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日本編 編集 今谷 明・大濱徹也・尾形 勇・樺山紘一
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第1巻 日本編上 歴史家配列は生年順 ( )内は執筆者 徳富蘇峰(大濱徹也) 白鳥庫吉(窪添慶文) 鳥居龍蔵(中薗英助) 原 勝郎(樺山紘一) 喜田貞吉(今谷 明) 三浦周行(今谷 明) 幸田成友(西垣晴次) 柳田國男(西垣晴次) 伊波普猷(高良倉吉) 今井登志喜(樺山紘一) 本庄栄治郎(今谷 明) 高群逸枝(栗原 弘) 平泉 澄(今谷 明) 上原専祿(三木 亘) 野呂栄太郎(神田文人) 宮崎市定(礪波 護) 仁井田 陞(尾形 勇) 大塚久雄(近藤和彦) 高橋幸八郎(遅塚忠躬) 石母田 正(今谷 明) |
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第2巻 日本編下 歴史家配列は生年順 ( )内は執筆者 久米邦武(田中 彰) 山路愛山(大濱徹也) 内藤湖南(礪波 護) 津田左右吉(大室幹雄) 朝河貫一(甚野尚志) 黒板勝美(石井 進) 福田徳三(今谷 明) 辻 善之助(圭室文雄) 池内 宏(武田幸男) 羽田 亨(羽田 正) 村岡典嗣(玉懸博之) 田村栄太郎(芳賀 登) 山田盛太郎(伊藤 晃) 大久保利謙(由井正臣) 濱口重國(菊池英夫) 村川堅太郎(長谷川博隆) 宮本常一(西垣晴次) 丸山眞男(坂本多加雄) 和歌森太郎(宮田 登) 井上光貞(笹山晴生) |
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第5巻 日本編続 歴史家配列は生年順 ( )内は執筆者 狩野直喜(戸川芳郎) 桑原隲蔵(礪波 護) 矢野仁一(狹間直樹) 加藤 繁(尾形 勇) 中村孝也(中田易直) 宮地直一(西垣晴次) 和辻哲郎(樺山紘一) 一志茂樹(古川貞雄) 田中惣五郎(本間恂一) 西岡虎之助(西垣晴次) 岡 正雄(大林太良) 羽仁五郎(斉藤 孝) 服部之總(大濱徹也) 坂本太郎(笹山晴生) 前嶋信次(窪寺紘一) 中村吉治(岩本由輝) 竹内理三(樋口州男) 清水三男(網野善彦) 江口朴郎 (木畑洋一) 林屋辰三郎(今谷 明) |
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世界編 編集 尾形 勇・樺山紘一・木畑洋一
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第3巻 世界編上 歴史家配列は生年順 ( )内は執筆者 ピレンヌ(河原 温) マイネッケ(坂井榮八郎) ゾンバルト(金森誠也) メネンデス・ピダール(小林一宏) 梁 啓超(佐藤慎一) トーニー(越智武臣) アレクセーエフ(加藤九祚) マスペロ(池田 温) トインビー(芝井敬司) ウィーラー(小西正捷) カー(木畑洋一) ウィットフォーゲル(鶴間和幸) エリアス(木村靖二) ブローデル(浜名優美) 侯 外廬(多田狷介) エーバーハルト(大林太良) ウィリアムズ(川北 稔) アリエス(杉山光信) 楊 寛(高木智見) クラーク(ドン・ベイカー/藤川隆男訳) ホブズボーム(水田 洋) マクニール(高橋 均) ジャンセン(三谷 博) ダニーロフ(奥田 央) フーコー(福井憲彦) デイヴィス(近藤和彦) サイード(杉田英明) タカキ(富田虎男) |
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第4巻 世界編下 歴史家配列は生年順 ( )内は執筆者 スタイン(池田 温) ヴェーバー(伊藤貞夫) バルトリド(小松久男) ホイジンガ(樺山紘一) ルフェーヴル(松浦義弘) フェーヴル(長谷川輝夫) グラネ(桐本東太) ブロック(二宮宏之 ) 陳 寅恪(尾形 勇) 顧 頡剛(小倉芳彦 ) ギブ(湯川 武) カントロヴィッチ(藤田朋久) ゴイテイン(湯川 武) 二ーダム(草光俊雄) フェアバンク(平野健一郎) コーサンビー(山崎利男) モミリアーノ(本村凌二) ライシャワー(スティール) 陳 夢家(松丸道雄) フィンリー(桜井万里子) イナルジク(永田雄三) トムスン(近藤和彦) グレーヴィチ(石井規衛) ル・ロワ・ラデュリ(阿河雄二郎) ヴェーラー(木村靖二) イレート(池端雪浦) |
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編者のことばから | |
「二十世紀の歴史家の至福と受難」 樺山紘一 二十世紀とは、歴史家にとって、至福だったのか、それとも受難だったのか、おそらく、そのいずれでもあろう。(中略) さて、二十世紀も終わろうとするいま、その至福と受難の足跡をたどりなおしてみたいと考えた。歴史家がいきた二十世紀の歴史を、回顧する。むろん、それは偉大な歴史家を顕彰するばかりが目的ではない。二十世紀からつぎの世紀へと歩みつつあるわたしたちが、あらためて歴史にたいしてどう対面するかという課題を、みずから引きうけ、考察するためにである。 歴史家は、二十世紀にいかに生き、いかに思考し、いかに書いたか。それは、せまく歴史家ばかりではなく、およそ歴史に興味をいだく現代人にとって、ひとしくかかわりのある問題であろう。読者とともに、この問題にとりくんでみたい。 ――『第1巻 日本編 上』「はじめに」より |
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「日本に於る歴史学の内省」 今谷 明 (前略)ともかくも、日本史を専門とする学者に限っていえば、この世紀の前半は、南北朝正閏問題と治安維持法という二つの制約により、歴史学の研究に大きな枠がはめられ、自由な論議を封じられていたことが余りにも大きく影響した。一九四五年八月以後、その意味では歴史家は自由を回復したわけであるが、今度は冷戦という国際関係の影響を受け、自分らの拠って立つ史観をぶっつけ、角突き合せて論戦するといった事態は少なかったように思われる。(中略)冷戦の終結からはや十年近くを閲した現在、今度こそ歴史家の史観を賭した議論を刮目したいと思うのだが、その風潮は今のところうかがえない。本企画の歴史家列伝≠ェ、そのような論争の誘い水≠ノでもなってくれれば編者の一人としてこれに勝る喜びはない。 ――『第2巻 日本編 下』「あとがき」より |
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「転機にたつ歴史学」 尾形 勇 (前略)象徴的にいって、二つの「世界」大戦をくぐりぬけ、生産と殺戮という相反する二つの面において「大量」が出現したこの世紀は、つぎの世紀に対して、まさに地球規模での危機と不安を予測させてしまうのであり、この意味で二十世紀は、やはり激動の時代と呼ぶにふさわしい。 この二十世紀、歴史学もまた激流のなかにあった。異論や反論をしばらく我慢していただくために、あえて「個人的見解」という姑息な断り書きをつけていえば、今世紀の歴史学の展開は、どうもマルクス主義を抜きにしては語れないように思う。史的唯物論という「妖怪」が徘徊したこと―これが歴史学の畠における二十世紀最大の、とはいえないまでも、少なくとも屈指の特質ではなかったか。 ――『第3巻 世界編 上』「あとがき」より |
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「戦争の世紀と歴史家たち」 木畑洋一 (前略)本書における叙述で直接に触れられていない場合も含め、第二次世界大戦は、地域的広がりと、ファシズム―反ファシズムの対抗を基軸とするその複雑な性格のもとで、「二十世紀の歴史家たち」を深く巻き込んだのである。それは、本書で検討した「二十世紀の歴史家たち」について考える時、否応なく第二次世界大戦の問題にふれざるをえない場合が多いということを意味する。それぞれの歴史家に戦争体験が何を意味し、何をもたらしたかは、もちろん一様ではない。しかし、我々が「二十世紀の歴史家たち」のさまざまな著作を繙いてみる時、「歴史は何の役にたつの」という素朴な問いかけに答えようとしつつ、反ファシズム運動で命を失った歴史家がいた時代の知性に、自分たちが向き合っているのだということは、どこかで意識しておくべきではなかろうか。 ――『第4巻 世界編 下』「あとがき」より |
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「戦争と革命の間に生きる」 大濱徹也 二十世紀は戦争と革命の時代でした。……歴史家は、まさに時代の子として、帝国に向き合って生きるなかに、己の世界を切り開いたのです。そのため各人の営みには深く時代の陰翳が刻印されています。(中略) はたして二十一世紀の歴史家は、二十世紀の営みから、何を受けとめ、己の世界を構築するでしょうか。インターネットによる情報革命は、歴史を仮想空間に封じこめ、リアルな認識への目を失わせるかもしれません。リアリズムを欠落した歴史学は明日を手にする武器となり得るでしょうか。歴史家に問われる地に根ざした想像力はいかにして手にしうるでしょうか。それだけに二十世紀の歴史家が大なり小なり身につけていた歴史を読む目は、二十一世紀の現在を生きる作法として、心して学ぶべき世界となります。 ――『第5巻 日本編 続』「おわりに」より |
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